湯遊茶々 弐

申し込むだけ申し込んでほったらかしでした……。

従兄弟が作った伯母の手記を読む。

父は姉が二人、兄が一人、妹が一人、弟が二人いる。七人兄弟の真ん中。
手記を書いたのは先年亡くなった一番上の伯母1。
いつ頃書かれたものかはわからないが、伯母2が入院し、見舞いに来た、伯母2の息子さんが、叔父2の家で偶々見つけたのが、伯母1の手記だったんだそうだ。それを、印刷屋をしている従兄弟がテキストデータに起こし、伯母2の持っていた写真なども差し入れて、印刷&PDFデータをCDにして送ってくれたのだとか。
実家で印刷されたものを読んだのだが、面白かったので、PDFデータの方ももらって、帰宅してからゆっくり読んだ。

私は生まれるとき逆子だったらしい。

という文章から始まって、高等女学校一年の夏までについて書かれている。

私が産まれるずっと前の町の様子や、今は亡き祖父母の様子がとても活き活きと書かれていて、おもしろかった。
作者である伯母1は既に他界しているから、あまり引用をすべきではないのだが、教員をしていて、ちょっと厳しい感じの伯母1が祖母の指示で洗濯石鹸を買いに行き、おつりで飴玉を買い、それが祖母にばれて町中を追いかけっこするあたり、意外な感じすらした。

子供の頃の失敗談や、ほめられてうれしかった事、母である祖母の事をとても好きだった様子がなんとなく伝わってくる。
いつ頃書かれたものなのかがわからないが、叔父2が持っていたという事はかなり晩年に書いたのではないかと思う。
叔父2は、伯母1が亡くなった後、遺品の整理などをした人なので、入院していた頃か、他界する直前くらいに書かれたもののような気がするのだが、描写が本当に細かいので、高等女学校くらいに書かれたものなのかもしれない。

伯母1は、私が大学に入学した頃、大学の近くに住んでいて、風邪をこじらせて脱水症状を起こし、病院に担ぎ込まれた時は悪い足を引きずって何度も見舞いに来てくれた。
とても近くに住んでいたのに、会ったのはその時と、伯母1が北浦和の駅近くの病院に入院した時だけのような気がする。
この時も、カテーテルをつけていて、ほとんど話をする事ができないからと言って、広告の裏に色々と書き付けていたのを見せてもらった。
お見舞いに来てくれてありがとうといった事が書いてあったのだが、横たわる伯母1があまりにも痛々しくて、泣くのをこらえるのが精一杯でろくに内容を覚えていないのだが。

ちょっと印象に残った箇所があったので、伯母1の承諾なく転記させてもらう。

父が繭を売りに信州に行くというので車にのせて貰って行たが、 夕暮れ時、点々とともる軽井沢の別荘の灯を眺め乍ら、 いつか自分も勉強してあのようなところでくらせる人になりたいと思った。

七人兄弟の長女で、高等女学校に進学する時も祖父母は悩んだのだという。
その後、伯母1は教員になっている。
父が昭和8年の生まれなので、伯母1が生まれたのは大正だろうか。(伯母1と父は10歳くらい離れていた気がする)
大正生まれだからか、伯母1はかなり自立した考えの人だったように思える。

この手記は誰かに読ませる事を前提書かれているのかわからないが、自分の考えた事、感じたことを文章にせずにいられなかった伯母1の頃にもブログがあったら、もっと伯母1の文章を読むことができたのにと残念に思える。

……ちなみに、伯母1の娘である従姉妹も日記を書いていた。
これも、誰かに読ませる事を前提には書かれていないが、なかなかおもしろかった。

このことがばれたら従姉妹にくらわされるかもしれない……。
(彼女は時々このブログを読んでいるらしいので)

あれは私が高校の頃、従姉妹の蔵書を読みあさっていた際に偶然見つけたのであって、不可抗力だったのだと言い訳をしておく。