湯遊茶々 弐

申し込むだけ申し込んでほったらかしでした……。

惜しいことをしたかも

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じんわり話題になっている、群像文学新人賞受賞作にして、第159回芥川賞候補作、北条裕子さんの『美しい顔』ですが、これ、芥川賞候補作になる前にチラ見しているのです。

図書館で、時折文芸誌をざざっと読む事があるのですが、(新人賞の講評を読むのが最近好きで、松本清張賞京極夏彦先生の講評は良かった……反して、文學界新人賞のやつは……以下自粛)選者の中に多和田葉子さんがいて、6月号、手にとったんです。

本編を読む前に、ざざっと講評を読んで、新人賞受賞の『美しい顔』については、高橋源一郎さんはじめ、大層な絶賛で、どんなもんかな、とは思ったんですが、被災地には行ってない、でも、震災を扱った小説(しかもヒロインは被災した人)、と、あって、読むのを辞めたからです。

実在の事件を元にフィクションを書くのは、その事件の持つ事象としての強さ、それを分析したい気持ちや、自分なりの考えをまとめる為にありだと思ってるんですが、取材無しで書かれた、と、あって……。

うーん……、したらそれ、題材とする必要性を感じないんですが……と、思ってしまったんですよね、その時は。

特に、純文学作品は『合う』『合わない』が顕著で、別に『合わない』ものを無理して読む必要はあるまい、と、思って、掲載されてましたが、読まなかったんですよ。

私、性格が悪いんで、そこまでして新人賞を獲りたかったのか、とも思いましたし。

美人女流作家という言葉そのものに、しゃらくさいものを感じるので、そこでもう、自分の中ではアウトで。
(自らを鍛えて、結果的に『美人』を獲得した林真理子さんとかの作品は好きなのですが)

比較的整った顔で、まあ、美人では無いけど、みたいな作家さんを、メイクやフォトショップなどで美々しく仕上げるのはアリだと思いますが、本を売るにあたって、女性作家の顔をウリにする、みたいなのはあまり好きでは無く。(ブスのひがみ根性です、えーえー、すみません)

あー、まあでも、この容貌なら美人作家として売れるよなー、とも思い、私のシランところで、映画化決定したり、100万部突破とかしたらいいんじゃないかな、と、結局読まずにおりました。


そして、ネタ元の本との類似点が指摘され、挙げ句講談社と新潮社がそれぞれ声明文をあげるような騒ぎに。

ああ、話題になる前、余計なバイアスがかかる前に読んでおけばよかった、惜しい事をしたな、と、今は思います。

今、Webで全文公開されてますが、しかし、かといって読む気にはならないんだよなー。

この問題は、当事者達より、文学界隈の方々のリアクションの方が楽しくて、一種試金石のような気持ちでニヤニヤ見ております。(ゲスだ)