湯遊茶々 弐

申し込むだけ申し込んでほったらかしでした……。

5/7(日)父が逝きました

ちょうど娘のバスケ自主練真っ最中、妹から電話がありました。
基本妹からの連絡はメールが多いので、かかってきた瞬間からもしかしてそうかな、と、思ったんですが、その通りでした。

看護師さんから実家に連絡があり、呼吸がいつになく弱いという事で、母と妹、弟が病院に着いて、本当にすぐに。
何か言いたげにしていたらしいのですが、すでに声にならず、ふっと、電池が切れるように逝ったそうです。

苦しまない、本当に安らかな死であり、言葉は交わせなかったものの、一目見る事ができてよかった、と、思いました。
私は離れて暮らしておりましたし、昨年あたりから、次に会うことは無いかもしれない、と、思いながらの日々でしたので、覚悟はありました。
周りに他のお母さん達もいましたし、その先の段取りについて妹とやりとりする必要があったので特別に変化なく、娘にも練習が終わって、最後車に乗せたところで群馬のおじいちゃんが亡くなったよとぽつりと伝えただけでした。

夫に電話し、職場に月曜から休む事を伝えたり、事務手続きを一通り終えたところで少しうるっとしました。

今朝も、実家に10時に到着できるよう電車に乗り、早足で上野駅で新幹線に乗換えて、ちょうどきていた葬儀屋さんと話をしつつ、親族への連絡や近所への挨拶などを一通り終えて一度帰宅。

一晩寝て起きて、今度は娘を乗せて戻る予定です。

気を張っている間はそうでもないのですが、枕経をあげに来てくださった菩提寺の住職さんと話をしたり、町内会の役員さんと話をする折に、生前の父の話が出ると涙がこぼれますねえ……。

実家に帰ってすぐに見た父は若干目が半開きになっておりまして(やせこけてしまっているのと乾燥しているせいなのか、まぶたを閉じても開いてしまうようです)、思いっきり心残りがある感じに見えたのですが、葬儀屋さんが何度か顔を整えてくれたのと、私がわりと力技でまぶたを閉じたせいか、一旦帰る頃にはすっかり安らかな死に顔になっていました。

帰りの吾妻線がまさかの車両故障で上下運転見合わせ、復旧時間未定(しかも最終の一本前)という状況になるとは夢にも思いませんでしたが……(多分初めてです、実家から戻る時に電車止まるの)

結局妹に高崎まで車で送ってもらい、妹も無事帰宅、私も無事帰宅でほっとしたところです。

90歳。

大往生といってよい年齢だと思います。
本人も覚悟はしていたと思うんですが、お兄さんの申し送り(俺が死んだらこうして欲しい)という事だけしっかりノートに書いてあるところがなんとも父らしいなあと思いました。(自分の事はいいのか、とかね)

姉、兄、弟がわりとインパクトの強い人達で(そして多分レジェンド級インパクトがあったのは、父の思い出話になると必ず現れる祖父のエピソード)、どちらかというと自分のポジションは地味に感じていたのか、どことなく常に一歩引いた感じの父でした。

ただかなりの毒舌家でもあり、AB型こえぇ、と、思わせるところもありました。(外面がいいだけにその二枚面は子供心にもひでぇな、と、思ったものですが)

ただ、叔父や伯父は教師として教え子達の心に何かを残したように、父の料理は食べた人の記憶に残り、その味が失われてしまった事(父はレシピを文章化していませんでした)を惜しむ人が私達家族の知らないところにもいるのだと思うと、名を残さず、記憶にのみそれを留める事ができたであろう父をすごいとも思います。

群馬の田舎の食堂の料理人がひっそりと息を引き取りました。
カツ丼も、もつ煮込みも、サンマーメンも、私の好きだった鍋焼きうどんも、もう作れる人はおりません。

ただかつてそれを食べた人たちが、あれ、美味しかったなあ、と、どこかで思い出してくれたらいいなあ、と、思います。

書きたいことはまだまだありますが、ひとまずこれにて。